近年の伝記映画ブームでは、ボブ・ディランやフレディ・マーキュリーといったカリスマ的人物の生涯を、大きく劇的に描き出す傾向がある。一方で、「ドラマ性を優先するあまり、歴史的事実や人物の複雑さが単純化される」という批判も根強い。
1996年に公開された、27歳で夭折したジャン=ミシェル・バスキアを描いた伝記映画『バスキア』(ジュリアン・シュナーベル監督)も、例外ではない。カルト的な人気を誇る一方で、脚本の完成度には批判もある。しかし、ハイチ系およびプエルトリコ系アメリカ人として複雑な時代を生き抜いたバスキアの表現世界は、一面的な評価では捉えきれない。
いまはもう存在しないミニシアターでこの作品を観たとき、あまり知る機会のなかったバスキアの人生が、彼の作品群が断片的に散りばめられた構成によって、自然と引き込まれた。
監督を務めたジュリアン・シュナーベルはアメリカ出身の画家であり、映画監督としての本作が初の長編作品である。ニューヨークの同時代の芸術シーンを熟知する彼の視点は、この映画の特異性に直結している。シュナーベルは物語の整合性よりも、芸術家の内面にある混沌や激情、創作の瞬間に宿る真実に迫ろうとしている。
映像には、バスキアの作品と共振するような詩的で粗削りな質感があった。物語というよりも視覚的な印象の連なりのようで、伝記映画としては異色のスタイルをとっている。
舞台は1980年代のニューヨーク、ストリート・カルチャーと美術界が交錯するこの都市で、バスキアはレーガン政権下の都市の荒廃、薬物依存の蔓延、人種的不平等といった時代のリアルを鋭く反映しながら、自己の表現を貫いた。彼の作品には、人種的アイデンティティをめぐる問いや、社会的抑圧に対する応答が、断片的な言葉や記号、イメージとして刻まれている。
当時のアメリカでは、「怒れる黒人像」に加えて、「クールでスタイリッシュなアフリカ系アメリカ人」としての新たな表象が登場しつつあった。
バスキアはそうした文化的変化のただなかで、自らの出自を自己表現の核としながらも、それが市場に消費されていく構造を鋭く意識し、それを逆手に取る戦略的なアーティストでもあった。
美術史的に見れば、ジャン=ミシェル・バスキアは1970年代のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの知的傾向に対する反動として、絵画に身体性と情動を取り戻した存在である。彼はプエルトリコ系の父とハイチ系の母を持ち、幼少期から母とともにニューヨーク近代美術館(MoMA)を訪れるなど、美術に親しむ環境で育ったことも、彼の表現世界の深みを育んだ要因と言える。1980年代における絵画の復権を象徴するアーティストの一人でもあった。
映画の中では、アンディ・ウォーホルを演じたデヴィッド・ボウイが重要な役割を果たしている。彼の持つ強烈なカリスマ性と謎めいた存在感が、ウォーホルのつかみどころのなさや華やかさを象徴し、バスキアの孤独や葛藤、そして彼を取り巻く美術界の複雑な力学を浮かび上がらせている。賛否はあるものの、デヴィッド・ボウイの演技は単なる似せることを超え、圧倒的な存在感で画面を支配していた。
同時代の表現者であるプリンスの存在も思い起こさせる。プリンスがレコード会社との契約問題に抗議して顔に「Slave(奴隷)」と書いて公の場に現れたように、バスキアもまた、作品において奴隷制の記憶や制度的な抑圧への鋭い批評を込めた。両者に共通するのは、自らのアイデンティティを単なるカテゴリーにとどめず、多層的かつ戦略的に用いながら、自己神話を構築していった点である。
『バスキア』という映画は、傑出した才能の軌跡を描く伝記という枠を超え、1980年代という特異な時代における人種、表現、制度との葛藤を映し出していた。