映画を中心に思いつくまま綴る日々のこと

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「沈黙の死」としてのサムライ像 『ラストサムライ』と『SHOGUN 将軍』

日本の時代劇が注目されている。とりわけ海外において、ドラマ『SHOGUN 将軍』(ジョナサン・ヴァン・タッキン監督、2024年)の成功は、衰退する日本の時代劇に新たな活力を与えた。『SHOGUN 将軍』における真田広之(吉井虎永)の存在感は圧倒的であり、かつて『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督、2003年)で渡辺謙(勝元盛次)が体現した「サムライ像」と地続きにある。

しかし、この熱狂の背後には、オリエンタリズム的な「日本的なるもの」へのまなざしがなお息づいている。日本の武士像は、いまも世界にとって「理解可能な異文化」として消費され続けている。

真田広之がいかに歴史や文化の正確な表現を志しても、彼が演じる侍はすでに「世界が望む日本人」としての像を帯びてしまう。むしろそこには、私たち自身が信じてきた虚像の「サムライ」も重なっている。他者が欲望する日本像と、日本人自身が欲望する日本像が同調する地点にこそ、サムライ表象の現在的な意味がある。

両作品を貫くのは、「死」によってのみ完結する日本像である。『ラストサムライ』では、トム・クルーズ演じる異邦人オールグレンが、渡辺謙演じる勝元盛次の死に“名誉”を見出す。死は異文化理解と魂の救済をもたらす象徴として美化される。

象徴的なのは、夫を殺したオールグレンを前に、未亡人たか(小雪)が「彼は本分を果たした」と語り、許しを与える場面である。そこでは個人的な復讐よりも「武士として秩序の中で死を受け入れた」という大義が優先される。西洋的な「罪と罰」を超えたこの死の受容は、日本的な諦観の美学として描かれている。

一方『SHOGUN 将軍』の吉井虎永は、もはや自身の死を語らない。彼は他者に死を命じることで秩序を維持する存在である。子どもにも家臣にも、理由を語らぬまま「なすべきをなせ」と命じる。その沈黙の中に、説明を拒む美学が宿る。これは「戦って死ぬ」という劇的な騎士道的死とは異なる、いわば「沈黙の死」の構造である。

両作品における異邦人の恋愛もまた、「死」によって完成する構造を共有する。『ラストサムライ』ではオールグレンとたかの愛は性的関係を持たない精神的共鳴として描かれ、武士道という新たな生の発見をもたらす。

他方『SHOGUN 将軍』では、ブラックソーンと鞠子の愛は一度は肉体的に結ばれることで現世的な成就を得たかに見える。しかしその直後、鞠子の壮絶な死によって愛は永遠化され、さらにブラックソーンの行動原理を決定づける政治的契機へと変容する。ここでも愛の完成は、死を通じてのみ保証されるのである。

重要なのは、これらの物語において女性が常に「異邦人を日本へ導く存在」として描かれる点である。彼女たちの自己犠牲は、異邦人の成長と日本理解の物語を成立させる装置として機能している。このジェンダー化された構造は、オリエンタリズムの美しい欲望の一部である。

西洋の騎士道において死は、個の誇りを貫く自己表現である。だが、武士道的死は、主体を消し去り秩序の中で死ぬことで完結する。その不可解さがグローバルな観客の目には神秘として映る。そのあら難いがたい魅力の前には、真田広之の虎永も、オリエンタリズムの網の中に囚われざるを得ないのかもしれない。

だが同時に、侍の沈黙の死は、私たちにとってもすでに異国的なものとなっている。現代の日本人はもはや侍を生きることはできない。それでもなお、私たちはその虚像に何らかの救いを見出してしまう。つまり「サムライ」は、世界にとっても日本にとっても、すでに異邦の存在である。そこにこそ、いまなお世界が“サムライ”を求め続ける理由があるのだろう。