映画を中心に思いつくまま綴る日々のこと

日常と映画について不定期に綴っています。

『クライング・ゲーム』が描く奇跡

テロリストが登場する映画を、つい観てしまう。
思想的な共感を持っているわけではない。ただ、そこには世界の周縁に追いやられた人間がいる。選んでそうなったのか、追いやられたのか、その境界は曖昧だが、彼らは暴力しか解決策がないと信じている。

多くのハリウッド映画において、テロリストは「一理あるように見える存在」として描かれる。
その思想や動機には一定の理解が示されつつ、最終的にはその奥に潜むエゴイズム、暴力性、あるいは個人的な歪みが露呈する。
観る者はやはり共感できないと胸をなでおろす。そうした免罪符が、物語の構造そのものに組み込まれている。

だが、1993年のアカデミー賞脚本賞を受賞した『クライング・ゲーム』(ニール・ジョーダン監督、1992年)は、そうした構造から逸脱している。IRAアイルランド共和軍)という政治的背景を持ちつつも、この映画は「敵と味方」という対立軸を崩し、人間同士の関係に焦点を移していく。


終盤に向かうにつれて立ち現れるのは、より越えがたい壁だ。
それは国家でも宗教でもない。もっと個人的で、けれども社会の深層に根ざした、人種、ジェンダーといった差異である。

クライマックスでは、鉄格子越しに、主人公ファーガスと、ディルが語らう。
彼らは、きっと一生、このままだ。けれど、女(生物学的には男性)はどこか幸せそうにも見える。

そこには恋愛の「成就」はない。彼らは永遠に結ばれない。ただ、言葉を交わす。それだけのことが、観る者にとっては痛いほど切なく、そして不思議な安堵をもたらす。ただし、それは観客のための安堵ではない。彼ら自身の静かな安堵が、観る者の胸にゆっくりと伝染していくのだ。

監督のニール・ジョーダンは、この結末を「ハッピーエンドのようなもの」と語っている。
鉄格子は、物理的には彼らを隔てているが、それ以上に超えがたい壁――ジェンダーや信念、身体――を、静かに見せてくれる装置でもある。

たとえば、同じくIRAを背景とした映画『デビル』(アラン・J・パクラ監督、1997年)のように、善悪の彼岸でふたり(ブラッド・ピットハリソン・フォード)の人間性を描く映画はある。
だがそこでは、観客がどこかで感動という「安心」できる仕掛けが施されている。安全な距離から見守ることが許された映画だ。

しかし『クライング・ゲーム』は違う。観客には、安全な視点は用意されていない。
この映画は、壁を超えることも批判することもなく、あるものとして提示する。

いま、多様性の名のもとに、セクシャリティーも、人種も、「超えられる」ように語られる言説がある。

1992年の『クライング・ゲーム』は、「超えられないもの」を正面から見せている。
それが絶望でなく、優しさとして立ち上がってくるのは、映画という表現が可能にする奇跡といえるものだろう。

ニール・ジョーダンのまなざしが、しみる映画だ。